67を引っさげて歩いていたらティッシュ配りのお兄さんに仕事ついでに「ここらへんでいい修理屋ない?」と聞かれる。
生憎いい修理屋なんて私が知りたいぐらいだし、急いでいたしで手短に切り上げてさようならしてしまったのだけど、
どうせならもっと色々聞いておけばよかったと後悔。そしたら何かわかったかもしれないのに。

それにしてもやっぱり目立つものなのかな。中盤以上のカメラをひっさげて歩くのは。自分ではもうすっかり慣れてしまったのでわからないけど。
でも私も初めて67を見たときはでけぇ!と思った(ハズだ)し、重い!とも思った(ハズだ)し彼氏が「それをひっさげている」というだけでなんだかドキドキした(ハズな)のです。

でも今人からのそういう反応を(デカイ重いうるさいなど)どうにも素直に受け止めれない。サッパリ。ピンと来ない。
いくら慣れたとはいえ1年以内に同じことを思っていた(ハズな)のにここまでわからないものなのかな。


私がもう普通だと思っている事は、やっぱり普通じゃない事のほうが多くて、でも大概そういうことっていうのは、頭のどこかで「これは他の人から見ればちょっと違うのかもしれない」とうっすらわかっているのだけど、
最近本当に「普通」だと信じて疑っていなかったことを、人からイキナリ指摘されてびびることが多い。
先の話と同じように私も(そこまで遠くない)昔はそういう指摘をしてくれる人と同じ感覚を持っていたはずなのに。今の私のような人に違和感を覚えたりしたはずなのに。他人事のようにしか思い出せない。
あの感情はどこへいったんだろう。
考えや感情は薄れるものではなくて消えてしまうものなの?
薄れる=消える?薄れる→消える?

よく「慣れは恐い」と聞くけど、それ以前にとても不思議。
「慣れ」に影響を受ける感情や記憶のメカニズムは一体どういうしくみになっているんだろう。ポワワワワ〜ン